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2010年12月18日土曜日

#projectitoh 「ハーモニー」読了。

乙女チックである。「虐殺器官」の後に続けて読んだからだろうか、主人公が女性であることを割り引いて考えても、やはり乙女チックな内容に仕上がっているように感じる。
謎解きはふんだんに盛り込まれているが、主人公霧慧トァンが本質的に悩み苦しむ様は描かれていない。本当に悩み抜いた時間は物語の中からスッポリ抜け落ちていて、まるで、人生も世界も達観しているかのように大胆に振舞っている。
「虐殺器官」では科学技術の進歩により曖昧になる「生」と「死」の境目と、「意識」と「無意識」の境目について、悩みながらも何かの答えにたどり着こうとする主人公が描かれていた。しかし、「ハーモニー」では、生と死の問題は語られない。作中の死は我々が普段から見聞きしている死のイメージと全く変わらない。
人間が科学技術によって、半ば強引に「生かされている」時代を描いているわけだから、生と死の境目を描く必要性そのものが存在しない。「虐殺器官」の中でシェパード大尉が母の亡霊を見ながら悩み続けた、生きたまま死んでいる状態は「ハーモニー」の世界では存在しないのだ。
そのかわり、意識とは何か、意識が消失した人間とは何かについては滔々と語られている。
つまり、「ハーモニー」は生と死の問題を超越した人類の「意識」を持った存在としての自己のありかたに関して語られた物語と言えるだろう。
作中でも少しだけ触れられているが、「ハーモニー」の起点<大災禍>は「虐殺器官」の結末とつながっている。したがって、「ハーモニー」は「虐殺器官」の続編と言ってもいいのだろう。しかし、単純に続編というには作風が対照的だ。
従って、「虐殺器官」と「ハーモニー」は、表と裏、悩みに対する答えだと考えたほうがいいだろう。もちろん、「現時点での」という注釈は付くのだろうが。
そう考えて作者伊藤計劃の悩みに対する答えを読み解くとすれば、生と死の問題については、医学が進歩し、病や怪我の治療法が十分高度化されれば、大衆的な肉体の生と死に帰着できるということなのかもしれない。
そして、「意識」と「無意識」。自分の体を自分のものとして扱う自分自信の「意識」とは何か、生前、伊藤計劃が導き出した、この時点での答えは物語全編を通して語られている。

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