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2011年1月22日土曜日

映画「アイ,ロボット」の原作「われはロボット」を読んだ #bookJP .

アシモフの作ったロボット三原則は、日本では鉄腕アトムのおかげでかなり有名だ。正しくは「ロボット三原則」ではなく「ロボット工学三原則」あるいは、「ロボット工学の三原則」というらしい。
これの一般への浸透度合いといったら恐ろしいもので、(SFではなく)現実のロボットの安全規格に関する会議で、かなり年配の男性が「既に、ロボット三原則というすばらしいものがありますから」などと真顔で言い始めるので驚愕する。
また、同じく日本では1999〜2005年頃にかけての大ロボットブームで、「ロボット工学(ロボティクス、Robotics)」という単語が当たり前のように使われるようになった。しかし、これはアシモフがSF小説のために作った造語だということは意外に知られていない。また、これと対比させるためにアシモフは「ロボット心理学」という単語も作っているのだが、こちらはまだ現実が追いついていないようだ。
もっとも、元になる「ロボット」という単語がカレル・チャペックが戯曲のために作った造語で、1920年にこの単語が生まれて以来、この意味するものは日々変化している。タイムマシンやワープ航法、火星人、異次元世界などと同じ類のSF用語なので、話の都合に合わせて作家独自の解釈が付け加えられるからだ。
これが文学や漫画の世界で閉じていればそれほど問題にはならなかったが、大学の工学部にロボット工学科とか、ロボティクス学科が作られるまでになると、少し話しがややこしい。工学部の下ではSF小説を書いているだけでは許されない。
しかし、日々「ロボット」の定義が好き勝手に書き換えられるのでは、「ロボット工学」の中でやるべきことも人によってさまざま。結局「自分自身のロボット工学があればいいんだよ」ということになってしまった。二足歩行が話題になれば、オレは四足だ、いや六足だといって歩行の話題ばかり。OpenCVが公開されると、誰も彼もが画像認識。ちょっと手を付ければ、ぱっとおもしろそうなことばかりに群がっている。
そんな、お粗末な21世紀の現実とは違い、アイザック・アシモフは陽電子頭脳という、設計はできるが解析は不可能な架空の装置を作った。これを備えた機械をこの時代のロボットと定義している。
したがって、「われはロボット」(1950年)の中では手足がなくても陽電子頭脳さえあればロボットとされる。
この陽電子頭脳は基本設計の段階でロボット工学三原則が組み込まれており、ロボットはロボット工学三原則を破ることはできない仕組みだ。
また、陽電子頭脳は分解して解析することが不可能なので、ロボットが想定外の挙動をするたびにロボットと会話をしながら陽電子頭脳の考えていることを推理し、分析していく必要がある。ここでロボット心理学者スーザン・キャルヴィン博士の登場となるわけだ。
全体を通して、雑誌の女性ライターが、キャルヴィン博士にインタビューするという形で、キャルヴィン博士視点で語られるオムニバスになっている。個々の話を読んでも十分面白いが、全体を一つの流れとして読んだほうが何倍もおもしろい。
陽電子頭脳の働きによって、ロボットは心を持っている(ような振る舞いをする)。
人間に「消えてなくなれ」と命令されたロボットは、新品のロボット群の中に紛れ込んで自分の存在を消そうとする。
事故で大怪我を負う前の主人とそっくりの外観を持ったロボットは、主人の代わりに選挙に立つ。
そのたびにキャルヴィン博士は、問題のロボットを特定するために、あるいは人間かロボットかを見極めるために、ロボットを尋問する。
この光景はフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(1968年)のバウンティ・ハンター、リック・デッカードが人間そっくりの有機的アンドロイドを特定するためにフォークト=ガンプ検査を行っている光景を思い出させる。そう、きっとフィリップ・K・ディックの頭の片隅にはロボット心理学者キャルヴィン博士がいたに違いない。
アシモフは、チャペックが作ったロボットという単語を時代と共に再解釈し、それをさまざまな造語と共に書き示すことによって、その後のSFの世界と現実の世界の両方に大きな影響を残したのだ。

ちなみに、映画「アイ,ロボット」の原作ということにはなっているが、関連は比較的薄い。映画の方はこの小説からヒントを得たと思われるシーンがいくつか登場するが、別作品と考えたほうがいいだろう。一見、ロボット工学三原則を軸に話しを展開しているようだが、ロボット工学三原則の解釈は小説ほど厳密ではない。それに、アクションを見せようとするあまり、個々のロボットに対する愛がない。アシモフがキャルヴィン博士を通して語らせた、ロボットに対する愛。これが表現されていないまま、人間対ロボットの格闘を描いてもそれは……、そう、クリープを入れないコーヒーのようなものだ。

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